プーシキンについて

2022/07/12

プーシキンについて  学生時代ロシア文学をやってましたが、 いわゆるロシア文学黄金期の作家たちが皆 「われわれはプーシキンから来た」と言っていたことは有名です。 プーシキンは37才にして決闘で倒れ、 ロシア革命以前の反体制派デカブリストの乱に関わったとして流浪生活を送っています。 200年前の人でありながら、 ロシアの野蛮と社会主義への傾斜を既に持ち、 その後に続く作家たちに多大の影響を与えた作家、 プーシキンの魅力はどこにあるのでしょう?


プーシキンの詩

 プーシキンは第一に詩人、それも第一級の詩人です。 例えば「若者の墓」。

……かれは消えた
恋と楽しみに育まれたやさしい若者
かれはいまふかい眠りとおだやかな
墓のさむさにつつまれている……
……

あるいは「***に」。

……
わたしの心は過ぎた日々の
あまたの恋につかれている。
けれどもおりふしゆくりなく
天使のようにきよらかな
若い乙女がわたしのまえを
通りすぎ消えてゆくとき
どうしてわたしはひとときの
夢を見ないでいられよう。

彼の詩は青春の詩であるばかりでなく、永遠の若さを保つ詩です。 その詩を読む者は皆、 自分の青春を心からの懐かしさをもって思い出さずにはいられません。

プーシキンの長編

 彼の詩以外の作品も、この詩的魂から生まれたに違いありません。 なぜなら、彼の小説は短編を除き、何年かの時をかけて完成されています。 計算して書かれたものではなく、 湧き上がる興に任せて筆を走らせたに違いないと思えるのです。 典型は「エブゲニー・オネーギン」で、 1825年から1832年まで7年をかけて1章ずつ書かれた上に 「韻文小説」と銘打たれています。

 ニヒリストのオネーギンと夢見がちで純粋なタチアナの話で、 男女がお互い相手を必要とする時には相手はあらぬ方を向いているという 悲劇を描いています。 タチアナがオネーギンのの手紙をぼろぼろ涙をこぼしながら読みながら、 その求愛を断る最後のシーンは感動的です。

 プーシキンの長編では「大尉の娘」が一番いいと言われているようですが、 どうでしょうか。 この作品はブガチョーフの反乱を題材にした歴史小説です。 新参の軍人ペトルーシャが、文字通り大尉の娘であるマーシャを愛し、 反乱に翻弄されながらも結ばれるまでを描きます。 何とプーシキンは最終稿で14章のうちのほとんど1章をカットしています。 彼にはきっと冗長は耐えられなかったのでしょう。 その話運びも、きわめてアップテンポです。 しかし、それでも、その短編に比べれば、はるかに完成度が落ちます。

プーシキンの短編

 「スペードの女王」は賭博の話で、 勝ったと思った札が開けてみるとスペードのクイーンに変わり、 その顔が主人公に微笑みかけるというラストが不気味です。 構成は一分のスキもありません。 しかし、あまりにも有名なので、今は論じないでおきましょう。

 私がお薦めしたい作品は「ベールキン物語」。 これは5つの短編からなる短編集で、 中でも素晴らしいのが「吹雪」と「その一発」です。 2作とも、めんめんと語られた昔語りが現在に届いた瞬間パッと終わるのですが、 その結末の見事さは「あっ」と息を飲む思いです。 この短い語りの中で、 この作家は人の生涯の素描をなんと完全にやりとげていることでしょう!

 「吹雪」は駆け落ちを約束した二人が運命にもて遊ばれる話ですが、 ハッピーエンドに終わります。 というと、最後に結婚するのかと思いきや、 結婚が許された後、男は二度とマリヤには会わないといって従軍し、 挙げ句は死んでしまうのです。 読者は完全に悲劇を予想するのですが、 ここからこの作者は「吹雪」による人ちがいを 完全に予想外の結末へとつなげていきます。 その手腕の見事さは類を見ません。

 「その一発」はこれとは違い、悲劇です。 そうは言っても、ロシアのトスカ(憂鬱)な気分におおわれた トラジコメディ(悲喜劇)といったほうがいいでしょう。 語り手の青年が出会ったどこか暗い影のある拳銃の名手シルヴィオ、 その声望と没落、そしてこつ然とした失踪。 全て劇的で、数年後、語り手が農場主として生活を始めたとき、 隣へやってきた伯爵夫妻との邂逅がシルヴィオ失踪の謎を解いてくれるわけです。 ここでも、その鍵は題名の「その一発」にあります。 そこにはシルヴィオの人生が凝縮されているのです。

ロシア文学の歴史と今後

 プーシキンは帝政ロシア時代、いわば反体制の作家ではありましたが、 まがりなりにも書きたいことは書けていました。 プーシキン後継者であるトルストイ、ドストエフスキーなどを飛ばし、 時代は社会主義ロシアへと移ります。 検閲で書きたいことも書けなくなった時代、文学は死んだかもしれません。 革命とともに生きたといわれるゴーリキーにしても あのロシア文学黄金期に比べれば明らかに小粒。 才能豊かだった詩人のマヤコフスキーはピストル自殺。 ラスプーチンやアイトマートフの作品にしたところで、 到底19世紀ロシア文学の華々しさには及びません。

 作家たちは「ソラリス」や「ストーカー」といった、 反体制をSFの寓喩の中に封じこめた作品を書きます。 いわば、抽象絵画のような謎めいた世界。 そこにはもうプーシキンのようなドラマチックで、 わかりやすく、共感できる作品はありません。

 先日起きたウクライナへのロシア軍の侵攻は衝撃でした。 プーシキンの活動は主にロシアでなされたとはいえ、 ウクライナは彼がかつて住んでいたこともある土地です。 社会主義がロシアの地に住む貧しい民の生活を改善したことは確かかもしれません。 それはデカブリストの乱に共感したプーシキンの志の延長線上で 生まれた体制なのかもしれません。 しかし、それは今必要以上に人々の精神を規制し、 過去からの亡霊のように、人々の行動の自由を妨げているばかりか、 人の命まで奪っています。 一体何のための主義であり、何のための体制なのでしょう?

 そもそも、プーシキンの文学はバイロン、 シェークスピアといった西欧作家の影響を色濃く受けたロシアの魂が生んだ、 ロシアと西欧の融合です。 新しいウクライナの自由な大地に、 21世紀のプーシキンが誕生することを期待してやみません。

※冒頭の写真はスペードの女王・ベールキン物語 (岩波文庫)の表紙です。

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